九龍城に住んでいた人の真実|東洋の魔窟の生活実態と住人のその後
わずか0.026平方キロメートル(甲子園球場のおよそ3分の2)という極小の土地に、最盛期には約3万3000人から5万人もの人々が密集して暮らしていた巨大要塞「九龍城砦(きゅうりゅうじょうさい)」。世界最高の人口密度を誇り、「東洋の魔窟」「一度迷い込んだら生きて出られない無法地帯」と恐れられたこの迷宮は、1993年から1994年にかけて完全に取り壊されました。
しかし、スクラップ・アンド・ビルドが進んだ現在でも、かつてあの薄暗いスラムの奥深くで「普通の人々」がどんな日常を営んでいたのか、好奇心を掻き立てられる人は後を絶ちません。映画やゲームのモチーフとして神格化される一方で、実際に現地で生活していた住民たちのリアルな息遣い、取り壊しに伴う立ち退きの真相、そして彼らが散り散りになったその後の行方は、今なお多くの謎に包まれています。当時の貴重な記録や関係者の証言をもとに、迷宮に生きた人々の真の姿に迫ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:「悪の巣窟」というイメージの一方で、実態は町工場や幼稚園、商店が立ち並ぶ人情味あふれる巨大密集コミュニティだった。
- 要点2:無免許歯科医や不法な食品加工場が乱立した背景には、イギリスと中国の管轄権の空白(治外法権)という複雑な歴史経緯があった。
- 要点3:1990年代の解体時には巨額の補償金が支払われ、元住民の多くは近隣の公営住宅へ移住し、跡地は穏やかな「九龍寨城公園」へと生まれ変わった。
【無法地帯の真相】かつての九龍城砦で人々はどう暮らしていたのか?
九龍城砦と聞くと、マフィアが銃撃戦を繰り広げ、麻薬と売春が蔓延する暗黒街を想像する人が少なくありません。確かに1950年代から1960年代にかけては、三合会(トライアド)と呼ばれる香港マフィアが支配し、阿片窟や賭博場が公然と営業する無法地帯だった時代が存在します。香港警察、イギリス政庁、中国政府のいずれもが主権をめぐって手を出せない「三不管(三者不行届き)」の地となったことが原因でした。
しかし、1970年代に入り香港警察の大規模な摘発が行われて以降、街の様相は大きく変化しました。暴力団組織は一掃され、そこに定着したのは中国本土から逃れてきた貧困層や難民たちです。彼らにとって九龍城砦は、身元審査や納税の義務がなく、安価な家賃で暮らせる最後のセーフティネットでした。
実際の生活実態は、恐ろしい犯罪都市というよりも「極度に過密化した下町の巨大長屋」に近いものでした。階下には理髪店、雑貨屋、肉屋、飲食店がひしめき合い、上層階には家族が身を寄せ合って暮らすアパートが積み上がっていました。外から光が差し込まない暗闇の通路を子どもたちが元気に走り回り、屋上では近所の住民が集まって夕涼みをしながら会話を交わすなど、そこには驚くほど温かみのある日常が息づいていたのです。
【驚きのインフラ事情】迷宮を支えた水道・電気と名物の「無免許歯科医」
建築基準法を完全に無視して違法増改築を繰り返した結果、最大14階建てのビル同士が隙間なく連結し、上空からの光を遮断しました。この過酷な環境下で、住民たちは独自の工夫によって生活インフラを成り立たせていました。
電気に関しては、当初は香港の電力会社から勝手に電線を引き込む「盗電」が横行していましたが、漏電による火災が多発したため、後年は正規のメーターが設置されるようになりました。しかし、頭上を縦横無尽に這う無数の電線コードから水滴が滴り落ちる光景は、砦特有の不気味かつ象徴的な景色として記録されています。
より深刻だったのが水問題です。公営水道の引き込みが制限されていたため、砦内には70本以上の深井戸が掘られ、住民グループが設置した電動ポンプによって屋上の貯水タンクへ汲み上げられていました。この地下水をめぐって水売り業者による利権が生まれ、住民たちは生活用水を買い求めていました。
また、九龍城砦を語る上で欠かせないのが無免許歯科医の存在です。砦の入り口付近には、抜歯や入れ歯の看板を掲げた怪しげな歯科医院が数十軒も連なっていました。彼らは中国本土で正式な歯科医師免許を持っていたものの、イギリス領香港の厳格な資格制度下では開業が認められなかった技術者たちです。香港市街地の数分の一という破格の治療費だったため、砦の住民だけでなく、外部の一般市民もこぞって治療を受けに訪れる人気スポットとなっていました。
【日本人の潜入・居住証言】魔窟の内部に入り込んだ探訪者たちの記録
この異様な空間は、世界中の建築家や表現者たちを惹きつけました。日本からも写真家や研究者、ジャーナリストが数多く潜入調査を行っています。
写真家の宮本隆司氏は、解体直前の九龍城砦の内部を詳細に撮影し、写真集『九龍城砦』で第14回木村伊兵衛写真賞を受賞しました。静まり返った廃墟のような通路や、生活感の染み付いた一室を捉えた写真は、建築学・文化人類学的にも極めて貴重な資料として世界中で高く評価されています。また、日本の建築家集団「九龍城探検隊」が解体直前の1992年に現地に入り、詳細な実測調査を行って制作した超精密な断面パノラマイラストは、今もファンの間で伝説的な資料として語り継がれています。
さらに特筆すべきは、実際に住民として生活した日本人の存在です。後に埼玉県議会議員などを務めることになるジャーナリストの吉田一郎氏は、香港留学中の1980年代半ば、家賃の安さに惹かれて九龍城砦の一角に部屋を借りて暮らしていました。吉田氏の証言によれば、治安に対する世間の過激なイメージとは裏腹に、住人同士の連帯感は強く、新参者であってもルールを守って生活していれば脅かされることはほとんどなかったと述懐しています。危険な魔窟という外からのレッテルと、内側の庶民的な現実との間には、明確なギャップが存在していました。
【解体と立ち退きの理由】巨額の補償金と住民たちが辿ったその後の人生
長年にわたりアンタッチャブルとされてきた要塞の命運が尽きたのは、1984年の中英共同声明がきっかけでした。1997年の香港返還が決まったことで、イギリスと中国の政治的な摩擦要因となっていた九龍城砦の存在意義は消失し、1987年に両国政府は共同で城砦の解体と跡地の公園化を電撃発表しました。
立ち退きを余儀なくされた住民たちに対し、香港政庁は手厚い支援策を用意しました。総額およそ27億香港ドルにものぼる巨額の補償金が投じられ、住民一人ひとりの居住スペースや事業規模に応じて配分されたのです。さらに、近隣に新設された公営住宅への優先入居権も与えられました。
立ち退き交渉は難航し、愛着のある住処を離れることを拒む住民による抗議運動も起きましたが、1992年までに全住民の退去が完了しました。城砦を去った人々のその後は様々です。十分な補償金を手にして一般社会で新たな事業を興し成功した者もいれば、最新の高層団地に移り住んだものの、砦特有の濃密な人間関係を失ったことで孤独に苛まれた高齢者も少なくありませんでした。
なお、九龍城砦周辺の過酷な環境で育ち、後に大成した有名人も存在します。世界的な映画監督である杜琪峰(ジョニー・トー)監督は少年時代を九龍城砦のすぐ近くで過ごし、その混沌とした風景や裏社会の空気感が自身のノワール映画作品の原点になったと語っています。
【2026年現在の様子】九龍寨城公園に残る遺構と語り継がれる記憶
現在、かつて高層バラックが天を突くように乱立していた跡地は、美しい中国伝統様式の庭園「九龍寨城公園」へと姿を変えています。当時の威圧的なスラムの面影は微塵もなく、青々とした木々が生い茂り、近隣住民が太極拳や散歩を楽しむ穏やかな憩いの場となっています。
しかし、歴史の痕跡が完全に消え去ったわけではありません。公園の中央には、清朝時代に建てられた役所建築である「衙門(がもん)」が完全修復された状態で保存されており、砦が軍事基地だった頃の大砲や、解体工事の際に出土した「九龍寨城」と刻まれた巨大な南門の石碑が展示されています。
また、公園内の展示スペースには精巧な城砦の縮尺模型や住民の証言パネルが常設されており、かつてこの場所にどのような生活が存在していたのかを今に伝えています。近年では、香港映画『九龍城寨之圍城(トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦)』の世界的ヒットなどにより、失われた要塞への関心は過去最高レベルに再燃しています。CGや巨大セットで再現された迷宮を目にした若い世代が、歴史の証人たる公園を巡礼に訪れるケースが後を絶ちません。
【九龍城に住んでいた人】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:九龍城砦の中は本当に一般人が歩くだけで襲われるような場所だったのですか?
A1:1970年代中盤以降は警察のパトロールも行われるようになり、日中に通路を歩いているだけで無差別に襲われるような治安状況ではありませんでした。多くの住民は普通の労働者や家族連れであり、暗黙のルールを守りさえすれば、部外者であっても食堂や商店を普通に利用することが可能でした。
Q2:郵便配達員はあんな複雑な迷路にどうやって郵便物を届けていたのですか?
A2:砦専門の熟練した香港郵便局員が配置されていました。彼らは迷路のような路地や階段、空中通路を完璧に把握しており、住所表記が曖昧な手紙であっても「〇〇階の角の部屋の誰それ」といった記憶と経験を頼りに確実に配達していました。住民にとってはライフラインを繋ぐ英雄的な存在でした。
Q3:なぜあれほど多くの無免許医が集まっていたのですか?
A3:九龍城砦がイギリス政庁の衛生法や医師法の適用外(事実上の治外法権)だったためです。中国本土で教育を受けながらも香港の公認資格を取得できなかった医師や歯科医、獣医たちが、警察の摘発を受けることなく堂々と開業できる唯一の避難所だったことが大きな理由です。
まとめ:混沌の迷宮が残した教訓と人情味あふれるコミュニティの記憶
九龍城砦は、歴史のいたずらと政治の力学が生み出した特異な空間でした。インフラも整備されず、衛生状態も劣悪な環境であったことは否定できません。しかし、そこに住んでいた人々は決して「悪の組織の手先」などではなく、激動の時代をたくましく生き抜こうとした名もなき庶民たちでした。
徹底的な過密状態の中で助け合い、独自のルールでコミュニティの秩序を保ち続けた彼らの暮らしぶりは、都市の効率化が進んだ現代において、人間らしい有機的な繋がりのあり方を静かに問いかけています。跡地の公園に残る静寂のなかに、かつて何万もの人々が息づいていた熱気の記憶は、これからも人々の心を捉えて離さないはずです。 (出典: 九龍 城 住ん で いた 人(Yahoo!ニュース))